幽かに生きてる

日常を考えています。日常エッセイ風一人コントブログです。

11は友人

近所にできた新しい家の庭でバーベキューが行われていた。楽しそうな笑い声が響く。こんなに暑いのだから窓を閉め切ってクーラーをつければよかった。この差は何だ。異常事態だ。頭のおかしい振りをして乱入してみようかな。

私は東京に友人がいない。本当に一人もいない。友人は作る気になれば出来ると思う。作ろうとしていないことが問題なのだ。さらに言えば友人がいない事をさほど問題と思っていない事が大問題なのだ。今、病気を患えば死ぬと思う。

こんな私でも地元には友人がいる。それも決して少なくはないと思う。たまに地元の友人と電話すれば、誰々が結婚したとか、数人で集まって飲み会をしたとか、もやもやとした気持ちになるような話を聞く。ゴールデンウィークやお盆には飲み会の誘いもある。ただ、いかんせんアルバイト生活の私は、決まった休みがあるわけでもなく、シフトに穴があけば給料は削られ、交通費の負担は大きく、地元に帰省するのはせいぜい年末年始が精いっぱいである。かといって、何かの夢があるわけでもなく、充実した日々を送っているわけでもない。

私は一体なぜこんなにも自分を苦しめているのか。理想の生き方と真逆の方向に向かっている気がする。

ふと最近思ったことがある。人は無数の選択をして生きている。世の中のすべての人はそれがどんなことでも良い方向に向かうと選択して生きていると思っていた。仮にそれが犯罪になってしまったとしても、自分にとっては「良い」と選択して生きていると思っていた。しかし、それは誤っているのではないかと思い始めた。

私の場合だが目の前に訪れるであろう困難や苦悩を避けるために、いの一番に楽な方に飛びついていた。そしてそれが、人間なのでは無いかと思い始めた。事実、その瞬間のみはそれが「良い」という選択かもしれない。しかし、少し考えれば、のちのち「良くない」ことがわかる。頭ではわかっているのだ。身体が楽な方へ向かってしまう。私が信じていた、私の選択はすべて「良い」というのは思い込みだった。

そしてそれに気づいても、未だにその間違った選択が往々にしてある。私は私の身体を見つめようとせず、頭だけが大きくなっていると感じる。

この肥大した頭を両手で支えて、部屋の中で悶えてみた。あ゛づいよー、と喚いてみた。だ、だずげでぐれー、と部屋中を歩き回る。少し気持ちが楽になる。ゾンビになった気分。しばらく続けると客観視する自分が次第に離れていく。このまま部屋を飛び出した。ゾンビは歩く。人の声がするほうに向かう。バーベキュー会場の男女は驚いたが、すぐに冷笑。次第に近づいてくる。誰これ?指を差しまだ笑っている。ゾンビは焼けた肉など興味を示さない。生きている人の肉を求めている。確実に近づいてくるゾンビに次第に焦りだす。一定の距離を保ち離れる。しかしどこまでも追ってくる。逃げ惑う声は大きくなり、叫び声に変わる。1人の男が立てかけてあるショットガンを手にした。ゾンビを狙う。ギリギリまで引き寄せて引き金を引いた。これまでの叫び声を銃声が裂く。反響を残し、訪れる静寂。ゾンビは死んだ。バーベキューは再開した。あれは僅かな恐怖体験の楽しいハプニングだった。ゾンビの死体を弄んで笑い合う。ゾンビの肉を焦がして遊ぶ。なぜか今日の私にはこんな異常な世界がありありと目に浮かんだ。

10は性欲

ガラスに映った自分を見たら頬の肉が薄すぎて、下手な占い師に死相が出ているとか言われそうなので、新宿駅前にいるストリートシャーマンの話聞いてみようかな。と思いつつファミマに入った。入店音に合わせて「ひだりのひと~とみぎのひと~」と口ずさみ、ご陽気に本日の昼食を選ぶ。

パスタかなオムライスかなざるそばかな、すると突然一人の女性が後ろから声をかけてきた。何食べます?と、えっ逆ナン、まじ?と思い少し震える。振り返ってみると、人違いでもなさそうだった。え、何ですか?と聞くと、え、何食べます?と同じ質問をされる。いや、今決めかねています。と答えるとそこの公園で一緒に食べませんか?と言われる。おいおいまじかよ。しかもそこそこかわいい。いやー、あるもんだな、都会。さすが。と思いつつ、あ、別にいいですよ。と私は気取った返答をする。私はおにぎりを2つ手に取り、彼女もおにぎりを買っていた。

私は8年間セックスをしていない。キスもしていなければ、手も繋いでいない。できなかったのではなく、していない。童貞ではない。これがまた厄介である。昼飯を一緒に食べるという話だけで、セックスにまでつなげてしまうこの思考で、こじらせ具合が分かると思う。

私と彼女は近くの公園に向かった。私はいつもここで昼食をとっている。その道中で彼女は死のうと思っている旨を打ち明けてきた。さすが。都会。私は話を聞いていた。話半分でパニクってもいた。彼女の顔を見ると陰鬱な表情をしている。彼女の話し方はたまに不自然な軌道を描き、私は大半の話の筋を見失ってしまった。その都度、聞き返すのだが、当たり前に話を続けていくので、調子を合わせて何となく聞いていた。どうやら彼女は精神病で通院していて、薬を服用していることだけは分かった。あと詩も好きらしい。暗い歌も好きらしい。イメージにピッタリのチョイスをしていた。

私がセックスをしていない理由は私なりの哲学に基づいた生活の結果であり、別に後悔だとか、不満だとかがあるわけではない。ただ私も人並みに、あーセックスしてーと独り言をつぶやく時もあるし、オナニーは普通にする。もしかしたら人よりも性欲は強いのかもしれない。決してセックス自体が悪いと思っているわけではない。セックスをする自分が嫌いなのだ。人と対峙しているにも関わらず、性欲に溺れていく自分が嫌いなのだ。事後、理性が霞んでいた、といつも後悔をしていた。

人は性欲に侵されてしまえば大なり小なり、理性を失うと思う。ゆえに、その人の嗜好によって、最中に相手が嫌がっているのにも関わらず過度な要求をする人がいたり、浮気や不倫があったり、犯罪があるのだろうと考えている。そんな話を聞いたりニュースを見るたびに胸を痛めるのだ。そして、こう言っている私も理性を失う。完全に失うわけではないが、かなり霞んでいると感じた。人は性欲に侵されてしまえば、明確に誰かを傷つけることが分かっていても、それをやってしまうのだ。私が何かをしたわけではないが、性欲による悪を回避するためと、自身で性欲を管理するためにセックスを拒否した。今でも性欲は諸悪の根源だと思っている。

公園でおにぎりを食べ終わると、彼女は先ほどの陰鬱は表情とは違い幾分明るくなっていた。彼女の話の端々で軽い冗談を差し込み笑いあうこともあった。彼女は一通り話し終えるとすっきりとした表情で名前と連絡先をメモに書き、私に渡した。インスタグラムもやっているとのことだった。連絡下さい、インスタも見てくださいね、と言い残し去っていった。

今になって思うのだが人間の脳が本能的な側面と理性的な側面でできあがっているとしたら、この「考える」という行為は理性的な側面であるため、いくら「考えて」も理性を優先し、それを飲み込もうとする本能を制約する働きは当たり前にも思える。

私は彼女の連絡先をポケットに入れた。厄介になりそうであるし、万が一セックスのチャンスが訪れてしまう可能性もあるので私は連絡しないと決めている。携帯を取り出して彼女のインスタをのぞいてみた。そこには男女で楽しそうな飲み会の写真や夕焼け空の写真、友人とのラインのやり取りなどもあった。決して多数とは言えないが、いいねもついて、コメントではその写真にまつわる会話を友人と楽しんでいる。ふざけるな、お前の方がよっぽど健全じゃねーか。

私はセックスをしないと決めている。でもどうしようもなくなったらあいつでヤリ倒してやろうと思う。私は連絡先を大切に財布に入れ替えた。

9は怒り

複数人で集まるところを目撃すると、誰彼構わず敵対心を抱かざるを得ない。

やたらと苛立つ日もある。普段なら見逃すほどのことも、本日は全世界の怒りをこの肩に乗せたような、決して己の内部からくるそれではなく、世界から理不尽に選ばれ被験者として決定されたかのようにイラだっていた。

狭い歩道で広がった大学生4人組。全員うつむいて指先の操作に集中したままないがしろな会話をしながらちんたら歩いている。

丑の刻参りやってやろうか。あなたのハートに五寸釘差しちゃうぞ♡

以前にも同じようなことがあった。夕方の嵐の中を歩いていて男女5人グループの横を通り過ぎた際の出来事だった。

女2人が相合傘でそのうちの1人が大げさに雷を怖がった。そこに傘を持たない眼鏡の男がここぞとばかりに女の肩に手を置き楽しがっている風の笑い顔を作っている。そんなに怖がるなよと優位に立っている。その後ろの男2人はこちらも相合傘で、雷にどれだけ怖がってんだよ。と小さい声で会話していた。

ただこれだけのことだが、このウソつきたちは何なんだと思った。すべてが表面的なリアクションで腹の底の真意とはかけ離れている。女の怖がりを起点とするこの一連の動きは、起点の欺瞞のせいで欺瞞が欺瞞を呼び和音が見事に響きあっている。心地よいほどに薄い。大学の近くで似合っていないスーツ姿だったのでおそらく就活中の大学生であろう。仮にこれが、創作物であるならば片っ端から殺していいと思った。

また以前から教員だとか上司だとかに受ける印象はいつも同じもので腹の立つものばかりである。別に何をされたわけでもないが、その態度は無関心でお前はいてもいなくても同じみたいな扱いを受け、やけに偉そうで明らかになめられている。無視されている感覚に近い。問えば返答はあるが、明らかに軽んじられている。言葉は私の頭上を通過して、私に語りかける人は誰もいない。そんなときは、もう本気で死んだほうがいいんではないか?と思うが、それならあいつらを殺すほうが先だ。と思い直すも、そんなことするつもりは毛頭なく、自分が死にたくないであろうことだけが分かった。

私は他人から少しでもネガティブな印象を感じ取ると心の中に黒ずんだ霧がかかり胸が苦しくなる。ましてや敏感になった心は本当に何でもないことですらネガティブに受け取り、ほとんどの時間、常にひとりでにうずくまっている。そうしてまた、出来るだけ他人と関わりを持つのはやめようと決心するのである。原因は自分の存在が認められていないが為の不満であり、怒りであると思う。それゆえ自分で自分の存在を認めてあげられれば、そんな不満もクソだと思えるのではないだろうか。1人でいるときにそれなりに幸せな理由は自分の存在を認めない人がいないからだろう。

怒っている私は復讐を果たさなければいけないと考えている。あいつらを上段の後ろ回し蹴りでゴミ捨て場に沈めてやりたい。

前を歩くおばあさんのバッグにはアベ政治を許さないのキーホルダーがついていた。この人は私と同じ気持ちを抱いているのだろうか。それとも周りに合わせているだけであろうか。

ここまでに散々怒りを書き連ねたが、どことなくやるせなく、自分にたいしてもイラだってきた。悔しさだとか悲しさだとか多くの感情を怒りで表現する、第二次性徴期的な未熟さを感じている。私はもっと出来るはずだと周りに示すために怒る。悔しさを込めて当たる。上手くいかない、こんなはずではない。いつもそう思っている気がする。

相変わらず他者に批判的で上から目線。自分では違うとお思いでしょうが、あなたが嫌っている人間はあなたと変わりないですよ。感情的であるし、偏見も多分に持っている。それあなたですよ、自分を認めて改めなさい。と天使が語りかけてくる。

奴らを死ぬまで呪ってやれ。学生の頃からほとんど永遠に感じている憎悪の炎が消えるはずもない。どこまでも憎しみ続けるのだ。あいつらが死ぬとき、それがいかなる死因であろうとも、お前の呪いが殺すのだ。と悪魔が語りかけてくる。

私はこの恐ろしい夜をエゲツナイトと名付けた。

8は不調

他人のふんどしで相撲を取る、って絶対に嫌だ。故事的な意味では無く。直に触れてるんだぜ。きれいなふんどしだろ。ウソみたいだろ。直に触れてるんだぜ。それで。

ブログを書くにあたり、私が人々について思ったことを書こうとするのだが上手くいかない。とりあえず一通り下に書いてみた。

結婚指輪をつけてる男性は世の中に結構いると思うが、地味目のお父さんがはめている場合は何となく香ばしい。結婚指輪というのを口実に指輪はめてる感じ。若い頃からの指輪への憧れが若干透けて見える。僅かなアウトロー願望みたいなやつ。それが誰にもつっこまれることなく、社会的な常識として自分の指輪の正当性を勝ちとった堂々たる姿勢。全く無関心を装っているが、本当は心の隅の隅のほうで俺、指輪してるよ、って思ってそう。まあそんなことはないか、考えすぎか。

首広めの服の女性結構いるけど、あれ、せな毛目立つよね。つい見ちゃう。

鉄の棒見つけたら、すぐストレッチ始めるおじさんいるよね。

舞台関係者が一座のことをカンパニーって言うの気になる。特にアイドルが舞台に出た場合のそのアイドルが使うカンパニーって言うのが一番気になる。これ普通に使ってますからみたいな。まあ普通に使っているのかもしれないけど。

とかとか色々な人々を見ていると、いかにも客観視する歪んだ毒舌みたいなのが出てきて、私的にはそれでニヤニヤ生活しているのだが、いざ文章として書いてみれば、こんなことを口外する人物に浅はかさとねちっこさを感じる部分があり、私の好きな文章ではない。どうすればよいものか。ふんどしはまではよかったと思う。この分野での暫定一位はお前んち天井低くない?だと思う。

7は社会不適合者

社会って社会不適合者でできているのではないか?

自分は社会不適合者であるという人が多すぎる。世の中に社会不適合者が多すぎる。何かつじつまが合わない。かくいう私も社会不適合者であると思っている。出勤中にそう思いついた。

そもそも社会適合者って誰?イケイケな奴のことか?パリピ?ギラギラのおっさんか?生地の薄い白Tシャツに色の薄いピッチピチのジーパンに便所で履くみたいなサンダル履いて、若いゴキブリみたいな浅黒いチョビ髭むちむちパッチリ二重男のことか?あれ何なの。どこの工場か知らんけど量産されすぎだろあれ。それとも量産型の大学生がすくすくと育ったらああなるのか?そうか、量産型が社会適合者か。いや多分違うな。他人からすれば私は確実にフリーターの量産型であろう。

いわゆる普通の生活というものをしている人のことか?大学まで進学して、それなりの会社で新卒で20万もらって、職場の人と結婚して子供産んで、子供が少しグレて、それでも立派に大人になって、子供の結婚式でグレた時の事をイジって、みたいなやつか。いや、既婚者でも子持ちでも死ぬほど自殺者はいるし、ちょっと待て自殺者は社会不適合者か?社会に適合できないと絶望し自殺したものもいるだろうが、精神的に壊れてしまって、もしくは壊されて自殺したものもいる。口が裂けてもそんな失礼なことは言えない。というか、そもそも中卒でもニートでも独身者でも社会に適合している人は山ほどいる。

では自分を社会不適合者と思っていない人が社会適合者か。何だその理屈、とは思いつつも、わりとしっくりきている。

ここで言う社会とは自分の周りで形成されているもので、その社会に自分が適合しているか否かは自分にしか分からず、はたから見たら自分が多少浮いていたとしても、それはその人にとっての社会の一部であるから、適合というよりは既にそのものであるのだろう。つまり、ここで使われる社会という言葉は、自分と2項対立しているもので、自分以外がすべて社会であるのだから、自分以外には適合も不適合も分かりえるはずがないということで、ともすれば社会不適合者が多すぎる社会というのも納得できる。自らが思えばすべての人は社会不適合者になりえるし、その逆も然りだ。自分から見れば自分以外の社会不適合者はいない。それそのものが社会、様々な人すべてひっくるめての社会だからである。

自分を社会不適合者だと思っている人は、人々をカテゴライズして、自分に劣等感があるのだろう。それは構造上というか、人の構造はよく分からないが、なんとなく脳の便宜上しかたないことでもある気がする。先ほどの量産型や普通の生活の偏見がいい例である。私の偏見はその人より優位に立った振りをして、ネガティブな思考から直接ダメージを受けないように、それを笑ってみせているのだろう。

もちろん偏見をなくし人を皆一人の人間として、真摯な態度で接して、人に優劣などなく、自分はダメな人間ではない。というのが最大の解であり、頭では分かっているつもりだが、なかなかそれも難しい。

そんなことを考えていたら、1日の仕事が終わった。

帰宅時電車に乗るとドアの前で坊主頭のおじさんが1人でぶつぶつ話している。完全に会話をしているので、はじめは電話をしているのかと思っていた。その人は1人会話の面白さに笑ってしまっている。それも、周りに気を使って笑い声をあげないようにしている。変な人だ。病気なのかもしれない。

その人を笑うことなど到底できない。当然、今までもそんなことはしてこなかった。笑う側を軽蔑していた。それはおそらく自分の劣等感からくるものであると感じた。マイノリティな人が、本人は笑わせることを意図していないのに笑う人が許せなかった。それは弱いものいじめである。自分が弱いものであると自覚して、自分が笑われているように感じたのだろう。

またやってしまった。その人を弱いものと決めつけたこと、自分は弱いものであると決めつけたこと。どうやら私が無意識に便宜的に見ている社会にはどうしても強者と弱者が存在しているらしい。さらに望んでいるらしい社会は、強者が弱者を打ちのめすことのない社会らしい。

であるならば私にとって理想的な社会は究極の社会不適合者で成り立つ社会である。全ての人が劣等感を抱いている社会である。そうであればすべての人は弱者には共感し、それを守る。強者には気付かれないように、その様を笑いに変えてひっそりと弱者が優位に立つ。社会不適合者バンザイなのだ。今や社会は社会不適合者で形成されるべきだと思っている。

ていうかこれ強者は謙遜しろってことか。そうだよ、もっと謙遜しろよ。謙遜して自分は社会不適合者って言っとけバカ。

6は不快感

通り雨にぶつかって、ずぶ濡れになった。私は高2の夏を思い出す。

部活が終わり、黄昏時の日陰のベンチで火照る身体を冷ましていた。近くの仲間とだべっていると、突然の豪雨。急ぎ屋内に逃げ込み外を見ると、バケツを返したような雨だった。地球の終わりが近づいている気分で少しワクワクしている。私たちはこの先の未来を、不確定なその先を、僅かに破滅願望を抱きながら過ごしていた。

皮肉にもその僅かな願望通りになった2018年、私は濡れた身体をいかんともしがたく、それとなく腕を払ってみたり、頭をかいてみたりしながら乾かぬ身体から水滴を落していた。道端でタバコを吸うおっさんの肩には、仏教系宗教画風のタトゥーが入っていた。フード付きのノースリーブパーカーみたいなの裸で着る人初めて見た。これ見よがしが過ぎるぞ、おやじ。

バイト先に入り挨拶を済まし、エアコンの前を陣取って身体を乾かした。周りにコソコソ言われている気もした。でも関係ない。身体が濡れている、いや最悪身体は濡れていてもいい。衣服がまとわりつくのがいただけない。この不快感はロシア人スパイの拷問にも使えると思った。すでに採用されているかもしれない。また一つ、国家機密に触れてしまった。

衣服も乾き、いつものように仕事を淡々とこなす。すると突然呼び出され、晴れたからと言って、別の建物に荷物を運搬するように命じられた。現在の外の状況は大量に水を打ったピーカン状態、餃子でも仕上げているのかと思うほどの蒸し暑さである。逆らう術を持たない私は従う。案の定、汗だく。案の定、羽根つき。見事に仕上がった。

羽根つき私は天使のようにふわふわとエアコンの前を陣取る。そこで何周していたかは分からないが、出来るだけまとわりつく衣服と身体にふわふわっと隙間を与えていた。てか、天使、服着てねーじゃん。よっしゃ、と服を脱げないのが社会のつらさ。別に性的な嗜好ではない、快楽を得たいのではなく、不快から逃れたいのだ。あー脱ぎたい。裸の爽快感を、いざ。あ、ちなみにこれ結構有名だけど陰毛をドライヤーの冷風で乾かすと気持ちいいよ。これ豆ね。

と、まあ昼間にさんざんと衣服の不快感を味わった私は帰宅後銭湯に行くことにした。帰り道はこの先起きうるであろう快楽に向けての妄想をしてした。ニタニタしながら駅の階段を下りていると、途中で東南アジア系の肌の色をした若い女性に追い抜かされた。後ろ姿しか見ていないが、短めの髪は癖のある濃い黒髪でその隙間、首の後ろ側には小さいマンダラのようなタトゥーが入っていた。何か本物っぽい、何か伝統的っぽい、何かカルマっぽい。よく分からないが、これだよ、おっさんと思っていた。

帰宅後、さらなるカタルシスを求めていた私はもう一汗かいてから銭湯に行くことにした。私は祭りを始めた。不定期開催アイドルソングで踊り狂え、一人裸祭り。大音量で流す音楽、もちろんイヤホンで。家でもイヤホンて、生きづらい世界。しかし、私は舞った、iPodのCMかと思った。この姿こそ本物の天使のようであった。

疲れ切った私はいざ銭湯へ。もう何も言うことない。最高。すべてが洗い流され、浄化された。唯一の心残りがあるとすれば、陰毛ドライヤーが出来なかったことぐらいであった。充足感を胸に心地よい夏の夜の風を切りながら闊歩すると、ふと思うことがあった。タトゥーの人たちこれ出来ないじゃん。銭湯入れないじゃん。何の修行だよ。いや、待てよ。これがカルマか?これこそが、カルマなのか。あのおっさんもカルマを背負っていたのだった。

 

5は羞恥心

電車内で携帯を見る人は他人に覗かれることを恥ずかしいとは思わないのか。自分の興味や嗜好が人に知られても平気なのか。

たとえ覗かれていないだろうと思っていても、どこでどう人が見ているか分からない。私はあいてが誰であろうと絶対に覗きたいタイプなので気づかれない様にかつ積極的に覗きに行く。ただし、携帯を覗いている人を見るのも好きなので、それが自分に該当しないように、携帯を触る本人だけではなく、しっかりと周りを確認して覗いている。その確認作業すらも挙動不審に映っていないかを心配するのである。

私が電車内で携帯を開くことはまずない。たとえどんなページでも、仮に外面を意識したよそ行きのページであったとしても、この人よそ行きのページ見てるよと思われるのが嫌なので、絶対に見ない。

この自分自身の羞恥心に対する防御力は相当なもので、もはや自意識過剰どころの騒ぎではなく、この世界を私の自意識で埋め尽くすことができると思う。世界のどんな隅っこにも入り込めるほどの自意識を持っている。この世界の片隅には私の自意識が詰まっている。そのため、どんな状況であろうも石橋をたたくことは忘れず、たたきすぎて壊してしまうほどである。仮にその選択が望んだものとしても、羞恥心のためであれば、何よりも優先し、選択しないという選択肢を選ぶ。いくら強固な石橋であろうともごくわずかなほころびを見つけると、それがナメクジの這いずりの跡だとしても、ヒビに見えてしまえばその橋を渡ることは決してない。本能がこの橋渡るべからずと言っている。

しかし生活の中で避けては通れない部分もある。私は満員電車に乗らなければいけない。私は出来るだけパーソナルなスペースを確保するため、いつも優先席付近の車両の結合部を奪取する。これが最大の努力である。

先日、すでにホームに到着している地下鉄に乗ろうとしたが、その混雑のため、今から乗ってもドア付近になり、駅に着くたび乗り降りしなくてはならないし、ドアに映る自分が見えるし、ドアに映る自分を見ているを思われる可能性があるし、私の中ではドア付近は最悪の条件であるので、確実に車両結合部を狙えるようにその電車は見送って次を待った。

しばらく待ってもなかなか電車は来なかった。イヤホンを外すと、事故の影響で次が遅れているとアナウンスが入っていた。私は選択を誤ったのか。羞恥心と億劫な気持ちをかなぐり捨ててあの電車に乗るべきだったのか。本能など無視すればよかったと、黄色の線の内側に並ぶ大行列の先頭で私は考えていた。

20分ほどして次の電車が到着した。私はいの一番に結合部に向かい、車両をまたぐドアに、もたれかかった。前に座るサラリーマンの携帯の画面がガラスに映り見えている。見えてるぞ、おいそれ見えてるから、と軽い優越感を感じながら画面とサラリーマンの顔を交互に覗いて楽しんだ。どうやら、ニュースを見ているらしい。はい、よそ行きのページね。と思い凝視してみると、先ほどの地下鉄の事故について情報を見ているらしい。確かに気になると思ったが、携帯を見るわけにはいかない。

しかし、先ほどの失敗がちらつく。もしや今、試されているのではないか、羞恥心を捨てるチャンスではないのか。よしここだ、と携帯を取り出した。はじめは携帯を開き隠し隠し調べていたが、意外と集中してしまい、そうなると周りの目が気にならない。

どうやら事故発生の時刻は私が見送った電車が発進した直後で4つ先の駅であったらしい。また大した事故でもないらしい。まあよかったと思いつつ、よくよく考えてみるとあの見送った電車も止まっていたことに気が付いた。おそらくあの電車は線路上で止まっていただろう。あの電車はあの混雑でありながら、細く狭い地下で停車していたのだろう。

私は過去に乗っている地下鉄が線路上で停車したトラウマある。その時、車内はたいして混雑していなかったが、なぜか不安が募り動悸が乱れ軽くパニックを起こした。よかったー、あぶねー。その状況は想像するだけでこわすぎる。安堵が体中に染み渡った。やはり私の本能はこの橋渡るべからずと言っていたのだ。