幽かに生きてる

日常を考えています。日常エッセイ風一人コントブログです。

18は金

どうもきな臭い連中が多い。SNSでブランドものに囲まれる人間もいればYoutuberはやたらと札束を見せたがる。少し前のネオヒルズ族のような雰囲気だ。自覚がなくてもはたから見れば、その狡猾さはすぐにわかる。あの脂っぽい様相は見るに堪えない。

金に群がる愚か者は無意味な情報商材を買わされ、バカのセミナーに参加する。汚い金だけは持っている奴を何かのカリスマとあがめ、金を吸い取られるのだ。ラーメンの汁に浮かぶ脂のように金に寄せ集められてつながっていく。

ブログもなかなかきな臭いものだ。自分だけ儲けられれば良いと考える連中は平気で嘘をつくし、目立ちさえすればアフェリエイトで稼げてしまう。有益な情報をとか抜かす連中もいるが、結局それも益を得ようとする人間がいるから成り立つ訳で私からすればバカのセミナーと何ら変わりない。参加費は無料であるが、それもおおもとのバカが儲けるために金を支払っているのだ。

考えれば商売そのものがもはや違和感でしかない。全ての人は益に向かって進んでいる。資本主義社会の宿命なのだろうか。

自然界では人間は何も生産できることもなければ、何かを所有することもできない。しかし、資本という人間界のみで通用する盲目の一致した了解による価値を作り出すことで、生産や所有が可能になるのだ。

その価値は労働による生産である。労働とは誰しもが価値を生産するために当たり前に行われるべきとの見方があるが、つまり人が生きる上では当たり前の価値のようであるが、実は人が生きるという事とは全く別問題なのである。

現在の社会では一部の例外を除けば生まれた時から生産が条件付きで、それによる価値を持たないものは死ぬしかない。残念ながら私は例外ではなく、人間である事実も変わらない。金が欲しいだとかの欲求も人間界で生きていかなければならない人間にとっては必然の欲求である。稼いでいる奴が偉い。それは間違っていない。

人間界で生きていれば人間が神にも悪魔にも見える。しかし、本来の自然界で生きている人間は神にも悪魔にもなりえない。人間は人間でしかないのだ。

私は人間界に反対する。資本主義とか共産主義とかそんな問題ではない。現存のシステムの崩壊とかも興味ない。無関心をつらぬき生きていくだけだ。人間界のシステムなどどうでもいいのだ。資本に飲まれた芸術の倒錯には方腹痛い。札束見ても、へーすごいっすねーとか適当に調子合わせて、ピントが合っていない眼差しを向けてやる。生きていけるように最低限働くだけ。そして何とか生きていくために、そんな私を救うために、私にとっての価値を見つけだそうと思う。本当の課題を見つけられたら、もう問題はほとんど解決したようなものである。

しかし現状私にとっての最大の価値が金にあることは変わりない。

17はファミレス

サイゼリアで昼食を済ませる。隣には二人の主婦らしき人がいた。短めのスカートを履いている方がメニューを手にしてサラダを食べる?と聞いていた。すると声の小さい片方は、私はいいかな。といっている。

注文はメニューを持っていたスカート女性が仕切った。最後に、あとドリンクバーも。と言った。すると間髪入れずに、小さな声の方が、あ、ドリンクバーいるかな?と言う。あーいらないか、じゃとりあえずこれで。とスカートの女性は注文をしめていた。せめぎ合っている。面白かった。サイゼといえども何だかんだで結構な料金になる。わかるわかる、と声の小さな女性に共感した。

二人は夫の不満で盛り上がっているらしかった。主にスカートの女性が話していた。声の大きさによって、そう思っただけかもしれない。盗み聞きのようなことも忍びなかったので、私はイヤホンで音楽を聴きだした。

音楽をBGMにしながら店内を見渡した。正面には年寄りの夫婦がいる。左側に目をやると遠くに大学生のサークルと思われる集まりもある。旅行中と思われる欧米の顔立ちの外国人家族もいれば、上司と部下と思われる二人組のスーツ姿の男女もいた。私はあまりにもファミリーレストランな光景にほっこりしていた。私たちは広い意味でファミリーなのだと感じた。

隣を見ると、主婦二人組は知らぬ間にドリンクバーのドリンクを飲んでいた。結局注文したのね。そう思いつつも私が周りを見渡すのには理由があった。注文したリゾットが一向に運ばれてこない。あまりにも遅すぎる。私は忘れられていることがわかっていた。店員に確認すれば済む話だった。しかし私は待つ。あえて待つ。これは当てつけではない。別の意味でこの状況を楽しんでいるのだ。忘れられた存在として、イヤホンの音楽の効果も加えて社会から隔絶している気分でいる。社会的な一切の責任から解き放たれて、私は都市の歯車として機能していないのだ。一つの自由を手に入れた気持ちでしばらくは満足感に浸っていた。

こう思っていたのもつかの間、自意識が芽生え始めた。私の周りにいる人たちはこの状況に気づいているのではないか?と思い始めた。あの人、全然注文届かないな。と思われているのではないかと思い始めたのだ。そうなれば話は変わってくる。先ほどまではファミリーだと思えていた人たちも、今では暗闇のジャングルの中で目を光らせる獣に見えてくる。存在感の薄さを嘲笑されているのではないか、または店員に催促もできない意気地なしに見られているのではないか、という不安が募ってくる。羞恥心を感じた私は店員を呼び注文を確認した。店員は謝罪し、リゾットはすぐに運ばれてきた。

私は早くこの視線から逃れるために急いで食べ始めた。しかしそれにはリゾットは熱すぎる。少し吹き出してしまう。自然と口をはふはふしてしまう。今の私には痛すぎる失敗だった。

それでもなんとか食べ終えて会計に向かう。少しの冷静さを取り戻した私は席を立つ際に隣のテーブルが目に入った。スカートの女性の前には四皿ほど並び、これは確かに頼みすぎだろ、と思った。割り勘だとかわいそうだなと思った。レジまでの間、周りを見渡してみた。誰も私の事など気にしていない。当たり前である。私は何と戦っていたのだろう。周りを見渡せばわかるはずだ。皆がここにいる理由は私一人を貶めるだとか、そんなちんけな理由であるはずがないのだ。それぞれが過ごした膨大な生活の上で空腹を満たすためだとか不満を話し解消するため、休憩のためや仲間たちと楽しく語り合うためなどのそれぞれの目的がたまたま交差してここに集っている。私たちは社会を形成している。私たちはこの世界で生活を共にするファミリーなのだ。

16は弱さ

自分たちの儲けの勘定に必死になっているバカたちを見る機会が多い。お前たちの思惑通りになってたまるかと思いつつ、私はある程度の加担する素振りを見せておく。やつらを打ち負かすための下準備だ。今は笑わせておけ。盛大な裏切りをかましてやろう。

学校でのいじめは日常茶飯事である。しかし実態はどうだ。噛み砕いてみれば皆ガキではないか。皆一人ではないか。集まっているからたちが悪いのだ。皆弱いのだ、それぞれの弱さを隠したい奴らが集まり、犠牲者は生まれるのだろう。それは大人社会でも同じである。本来の弱さに目を向けず、金やら権力やらで強いと勘違いした組織の人々は、犠牲者を作る。今に見ておけ、その勘違いした強さに溺れるがいい。今は私一人の謀反など取るに足らないだろう。それでも構わない。一人であることが重要だ。このほころびが致命傷になることを信じている。ようやく私は私が信じる正しさの立場を示す時が来た。

本来、私は決断など遅らせれば遅らせるほど良いと思っている。しかし全てを先延ばしにはできない、キャパシティが足りない。それゆえ決断の時は必ず訪れる。私の器では今が限界である。私のパソコンは「みる」の変換で落ちた。私のパソコンのキャパシティはそこが限界だったようだ。

テレビの情熱なんとかとか言うドキュメンタリー番組では密着されるコピーライターがオフィスでインタビューに答えていた。もはや、自然体を装うことが、自然であると思われるような画角では、例にもれず強烈にカメラを意識した「自然」が作り出されている。有名なデザイナーに依頼したらしいそのオフィスは白で統一されたインテリアであるが私からすればダサい。一体何年前の未来像をなぞっているのか。今はキューブリックが新しい時代じゃないんだよ。大層な集団は未だ自分たちが先端であると思い込んでいる。時代遅れの勘違いした強さにすがりつくお前のコピーに共感の一つもない。私はお前らの窮屈でつまらない世界に迎合するつもりはない。

私は戦うのだ。しかし問題はその戦い方だ。批判は盲目を呈する。攻撃的な言葉は弱い実態と裏腹にある。チワワがレトリバーに吠えるのも目撃したことがある。あきれるのも仕方ない、小さなもの弱いものが持つありがちな手法である。また弱さだけを露呈していてもいけない。不快に思うだけだ。リストカットの痕を見せても引かれるか、せいぜい同情されるのが関の山だろう。他人事なのだ、傷跡に自己陶酔しているだけだ。

私は弱さそのものが強さであることを知っている。いかにしてその弱さを叫ぶかということが重要なのである。弱さを受け入れ立ち向かっていく姿勢が必要であるのだ。その姿勢が快いのだ。弱いものでもグローブを付けてリングに立つことで共感は生まれると気が付いた。

15は戦い

体調不良の原因は暑さのせいか空腹のせいか寝不足のせいかその全てか。起床後に大量の汗をかいていたのでシャワーを浴びた。熱い湯でさらに汗をかく始末になりそうだったので、最後は水を浴びてシャワー室を出る。依然、胸の辺りがムカムカしている。身体を拭いて服を着る。空腹を感じてはいるが、食欲はない。仕方なく義務のように1枚の食パンにチョコクリームをぬって食べた。私は歯を磨いて、外出した。照り返しのきつい道路を歩いていると、頭はガンガンする。眠気もひどい。一度強く目を閉じると一瞬ではあるが幾分か楽になった。

職場につくと見知らぬ快活な女性がいた。女性は声が大きく、得意げにおしゃべりをしていた。専門分野の話をしているらしい。別に聞くつもりもなかったが嫌でも聞こえてくる。私はイラついた。彼女にすれば全く理不尽な話である。しかしそれも仕方ない。本日の私は虫の居所が悪い。何せ、現在は他のバイトが休みを取ったため、8連勤の真っただ中であるのだ。普段は感情を表に出すことは少ない。他人からすれば比較的のんびりとした人間に見えていると思う。私もそうでありたいと思っている。しかしつい、ほとんど無意識に私は舌打ちをした。私の周りで日常をつなげる緩くたわんでいたはずの糸は知らぬ間にピンと張りつめている。

何でもないですよ。と言わんばかりに伸びをしてみせて、周りを見渡す。気まずい。すると女性がすこし声を落としておしゃべりの続きをはじめた。いや、別にいいよ。気まずかったし、助かった部分もある。でも、まだ話すんかい。と思いつつ私は淡々と業務をこなす。あーバイトやめたいな。私はバイトをやめるため、何か稼ぐ方法は無いかと考えた。

webサービスを作る。商品となる物を作る。株。だいたいこの程度しか浮かんでこない。やっぱりこのインターネット社会、電車を見渡してもほとんどがスマホに釘付けだ。やるならwebだよなーとか思いつつ、どんなサービスがいいかな、月々の売り上げはいくら以上で足りるな、個人事業主になるのだから税金対策もしないとな、とかぼんやりと考えていた。しかし、私には何のスキルも無ければ、何から始めればよいかもわからないし、簡単ではないことも分かる。ましてや何をするかも決まっていない。だいたい本気でやることを見つけた人間の決断は瞬間的で気が付けば、まずやってみているのだろう。ただうだうだ考えているだけの私に少しの本気度も伺えない。

結局、私はこうやって乏しい空想で現実逃避をして、時間を過ぎるのを待っているに過ぎないのだ。ある程度時間が過ぎれば、この嫌な気持ちも消える。また訪れることは分かっているが、どうせ今この時間をやり過ごせばいいと思っているに違いないのだろう。

私は動き出す前に何かと考え過ぎるのだ。本当に自分の嫌なところである。今までの人生で、何か一つでも身につけておけばこれほどの不幸も感じていないはずだ。しかし現在の私には何の専門的な知識も無ければ、スキルもない。これが結果である。あの快活な彼女を前にして得意になれることなど一つもない。彼女にとって、これほどつまらない人間はいないだろう。これほど頼りない人間もいないだろう。上から目線で当たり前のように、何でやらないの?とか言ってくるのであろう。それにおどおどして返答できない私にあきれるだろう。だから私は打ち込むのだ。私の思いをフラットに表現する方法は匿名のブログにタイプするしかないのだ。もはやこれしか自衛する方法はない。同志がいることは知っている。私も戦っている。

14は夏

外出先に向かう徒歩移動は灼熱の太陽を直に体感し、ゆっくりと進む時間の中で穏やかに終末を待つ生活の一部分を感じた。都会に乱反射する放射線は逃げ場を失い、日陰でも容赦ない熱気を感じる。肩からストンと落としたような薄手のワンピースの女性の形の浮かんだ尻を追いかけても何も得られない。顔を上げる。歩く腕と指はイヤホンから流れる軽やかな音楽と同期する。

駅に到着し、電車を待つ。ホームの柱の陰からスマホを操作する透き通った白い肌の肉感のある丸っこい手が見える。電車が到着し、一歩前に踏み出すと、柱の陰から登場したのは身長2メートルはあろうかという白人のヒゲ面スキンヘッドだった。その手元を見ると、相変わらずかわいい手をしている。

電車に乗り込む。発進の騒音に負けないようにイヤホンの音量を上げる。前に座る若い女性は携帯を取り出して、ルナルナを見始めた。おっと、見てはいけないものだと、急いで目をそらした。気を紛らわすために、音楽に集中する。しかし、再び覗いてしまう。どうやらカレンダーを開いている。男性の名前とハートマーク。何を確認しているのだろう。いずれにせよ、相手の男性は幸せ者に違いない。
電車を乗り換え、次は座席にありつけた。左前の女性がかわいい。タイプだった。ちらっと見ると、その女性はどこを見るでもなく、ぼんやりと前方を見ている。いや、正確には見ていない。見られている自分を強く意識している。彼女は自分をかわいいと知っている。私は意識して目をそらす。絶対に彼女を見ないようにする。目を閉じて、イヤホンの音量を上げ、自分の世界に入りこんだ。今日は女の子のことばかり、考えている気がする。よくよく考えたら、物心がついてから、ずっと女の子のことばかり考えているような気がする。私は死ぬまで女の子のことを考えていくのだろうか。

夏はすでに始まっている。近々はもういい加減、私に1つや2つの恋愛があってもいいように思えた。というより、無いほうがおかしいだろう。私も年頃の男だ。確かに貧乏ではあるが、確かに積極的ではないが、そこまで生存競争で劣勢に立っているとも思っていない。すれ違う人、電車の中、同窓生との意気投合、何だっていい、この夏の可能性は無限に感じた。

そう思い改札を出ると街中の様子は一変した。世の中を見渡すと女性の多さに驚いた。当たり前のことだが、人間の半数が女性である事実には驚いた。いかに普段接していないかがうかがえた。いかに伏し目がちで生活しているのかに気づいた。それに比べて今の私は堂々としている。自信に満ち溢れている。私は女性をよく見てみた。たまに振り返りもした。しかし、どうしてか急いで目をそらされている気がする。慣れないことをすると勝手がわからない。こんなものなのかと思いつつも、弱気な自分も現れてきた。いや、こんなことで気持ちが折れていてはいけない。私は堂々たる男だ、依然として女性を見続けていた。

猛暑の中、混雑する街中で挙動不審の私は、ついに一人の女性とぶつかった。私は咄嗟に誤った。しかしなぜだか、にやけてしまっている。露骨に嫌な顔をして過ぎ去っていく女性、その表情には憎悪すら感じた。私は愕然とした。その拍子に猛烈な自意識を感じた。暑さも相まって、汗が止まらない。冷静になるため、コンビニに入りトイレに駆け込んだ。ズボンは降ろさず便座に座る。ダメだ。なんだか根本的に間違っている気がする。個室の中では、イヤホンから漏れる音がむなしく響いている。私はトイレで、女性への思いとイヤホンの音が漏れていた事を反省した。

13は貧乏

国民健康保険に脅される日々。財産差し押さえるってよ。差し押さえたところで、金持ちのじいさん1日分の通院費にもならないよ。私は金がなくて歯医者にも行けないってのにさ。

私には金がない。この世界に勝ち組と負け組があるとしたら、完全なる負け組である。そもそも勝ち組とは何であろうか考えた。おそらく多くの人が持つ願望を叶えたもので、羨望の眼差しを受けるものが勝ち組であろう。負け組とはその逆で、ある願望に届きえないと悟ったものが、それらを持つ別の人を羨んだ瞬間に負けは確定するのではないだろうか。

そもそも私は、金やら名声やら権力やらを持つ人を見れば一言目にはああはなりたくない。と発するような人間である。欲にまみれた卑しい人間が必死になって、何やっているのかと感じる。悪魔でも乗り移ってるのではないかと思う。素直に羨ましいといえない、参考にするなどありえない。むしろその人達の粗さがしを続ける私が、それらを得られるはずもないのだ。

こんな私でも口ではそう言いつつ、金と名声と権力は欲しい。よくよく考えればそう思うのも当然であるように思える。生まれてからこのかた、さも当たり前にそれらを目指して生きていきなさいと言われんばかりの学校教育を受けて、そのあり方に何一つ疑問を持つ隙も与えられず、それらを得たものや、得る可能性があるものが最も評価される。それゆえに、新聞でもテレビでもネットでも情報という情報の有益性は自然とそれらを得ることが出来るか否かに設定されている環境の中でこう思わない方がおかしい。人々は誰が得をして誰が損をするのかを充血した真っ赤な目玉で探し狂い、自身が損しない為にノートいっぱいに情報を書きなぐっているように思える。一方で道徳的な教えでは、豊かさはそんなものでは測れない、だとか、それは幸福ではない、だとかを半分閉じた様な目で語られるのだ。矛盾した世界で私が目標を見定められないのは、当たり前なのである。

結局それらは対外的なものにすぎず、私の幸福ではない。というのも分かる。上を目指せばきりがないのも分かる。いくら求めたところで欲に振り回される人生になるのも分かる。しかし欲しいものは欲しい。いかにしてこの世界と向き合っていけば良いのだろうか。

もう勝ちとか負けとかどうでもいいや。でもあいつらむかつくんだよな。一生、何だよ。って思い続けるのも癪だし。それこそ、振り回された人生になる。結局、私は向いていないんだろう。そうやって諦めの境地で生きていくしかなさそうだ。別に私は私の生き方や道徳を誰かに継承するつもりもないし、ひっそりと独り言を発して笑ってみたり、悲しんでみたりして死んでやろう。この世界に不向きな人が絶望の中でたまたま見つけて、自分一人だけではなかったと感じてくれるようなことがあれば、ただそれだけでいい。全世界に大きな恨みと小さな優しさを持って接して生きようと思った。

12は誕生日

24歳の誕生日を迎えた日、私はマクドナルドにいた。携帯が鳴った。地元の友人からスティービーワンダーのHappy Birthdayのライブ動画が送られてきた。つい笑ってしまう。私がイヤホンで聴き始めると隣にいたカップルが突然ディープキスを始めた。私は痛烈にスティービーワンダーの偉大さを感じた。

私が20歳の時、もっとも精神的に参っていた時期で、学校にも行かず、引きこもっていた。成人式にも出ず、友人に誕生日を祝われることもなかった。今思えば、いや当時も思っていたが、成人式には出たかった。友人と久々の再会を果たしたかった、もう2度と会うことがない人もいるだろう。しかし、当時の私は全くもって塵ほどの自信もなく、今再会したところで情けない姿をさらすだけだと意固地になっていた。親はしきりに成人式くらい行って来たら?と声をかけてくれていた。成人式に出て欲しかったのだと思う。

現在、私は20代後半にして、人生における重大なイベントの多くを逃してきている。しかし、そんなことが何であろう。むしろそれらを経験していないマイノリティとして、経験していないことの経験者として生きているではないか。と理屈をこねた虚勢を張ったところで虚しさはぬぐい切れない。これまでの成長を祝ってもらうだけで、何一つ感謝を返せていない。

以前テレビを見ていると、親子がインタビューに答えていた。子供に何を望んでいるか、という質問だった。「親としては、この子に何か一つは成し遂げてほしいですね。」と言っていた。子供も任せろと言わんばかりに大きく頷いていた。クソだと思った。この世界には成し遂げなければいけない事など何一つない。そんな事も知らずに親としてはとか、どの口が言ってるんですか。明日死ぬかもしれないんですよ。今日の帰宅中に死ぬかもしれないんですよ。「今、生きてくれているだけで十分です。」だろばか。と思った。つい暴言を吐いてしまったが、あれはテレビ用の答えで、実際のところはあの親子もこれが唯一本当の望みであると思っている。

友人に再会とか親に感謝とか子供の成果とか別にどうだっていい。喜びのすべては、自分が生きているらしい事を確認できるがゆえに、訪れる喜びなのである。悲しみのすべては、自分が生きているらしい事を確認できなくなってしまったがゆえに、訪れる悲しみなのである。

私にとっては誰が生きていていようとも、誰が死んでしまおうとも、私自身が私の存在を圧倒的なものにすれば、最強の人間になりえるのだ。しかし、どう頑張っても自分だけでは自分の存在を確かめられない。どうやら生きているらしい、ということすら分からない。だから、久々に友人に再会したいと思ったし、親に感謝を伝えたいと思ったのだろう。だから、あの子供は何かを成し遂げようとしているし、隣のカップルはディープキスをしていたりするのだろう。