幽かに生きてる

日常を考えています。日常エッセイ風一人コントブログです。

5は羞恥心

電車内で携帯を見る人は他人に覗かれることを恥ずかしいとは思わないのか。自分の興味や嗜好が人に知られても平気なのか。

たとえ覗かれていないだろうと思っていても、どこでどう人が見ているか分からない。私はあいてが誰であろうと絶対に覗きたいタイプなので気づかれない様にかつ積極的に覗きに行く。ただし、携帯を覗いている人を見るのも好きなので、それが自分に該当しないように、携帯を触る本人だけではなく、しっかりと周りを確認して覗いている。その確認作業すらも挙動不審に映っていないかを心配するのである。

私が電車内で携帯を開くことはまずない。たとえどんなページでも、仮に外面を意識したよそ行きのページであったとしても、この人よそ行きのページ見てるよと思われるのが嫌なので、絶対に見ない。

この自分自身の羞恥心に対する防御力は相当なもので、もはや自意識過剰どころの騒ぎではなく、この世界を私の自意識で埋め尽くすことができると思う。世界のどんな隅っこにも入り込めるほどの自意識を持っている。この世界の片隅には私の自意識が詰まっている。そのため、どんな状況であろうも石橋をたたくことは忘れず、たたきすぎて壊してしまうほどである。仮にその選択が望んだものとしても、羞恥心のためであれば、何よりも優先し、選択しないという選択肢を選ぶ。いくら強固な石橋であろうともごくわずかなほころびを見つけると、それがナメクジの這いずりの跡だとしても、ヒビに見えてしまえばその橋を渡ることは決してない。本能がこの橋渡るべからずと言っている。

しかし生活の中で避けては通れない部分もある。私は満員電車に乗らなければいけない。私は出来るだけパーソナルなスペースを確保するため、いつも優先席付近の車両の結合部を奪取する。これが最大の努力である。

先日、すでにホームに到着している地下鉄に乗ろうとしたが、その混雑のため、今から乗ってもドア付近になり、駅に着くたび乗り降りしなくてはならないし、ドアに映る自分が見えるし、ドアに映る自分を見ているを思われる可能性があるし、私の中ではドア付近は最悪の条件であるので、確実に車両結合部を狙えるようにその電車は見送って次を待った。

しばらく待ってもなかなか電車は来なかった。イヤホンを外すと、事故の影響で次が遅れているとアナウンスが入っていた。私は選択を誤ったのか。羞恥心と億劫な気持ちをかなぐり捨ててあの電車に乗るべきだったのか。本能など無視すればよかったと、黄色の線の内側に並ぶ大行列の先頭で私は考えていた。

20分ほどして次の電車が到着した。私はいの一番に結合部に向かい、車両をまたぐドアに、もたれかかった。前に座るサラリーマンの携帯の画面がガラスに映り見えている。見えてるぞ、おいそれ見えてるから、と軽い優越感を感じながら画面とサラリーマンの顔を交互に覗いて楽しんだ。どうやら、ニュースを見ているらしい。はい、よそ行きのページね。と思い凝視してみると、先ほどの地下鉄の事故について情報を見ているらしい。確かに気になると思ったが、携帯を見るわけにはいかない。

しかし、先ほどの失敗がちらつく。もしや今、試されているのではないか、羞恥心を捨てるチャンスではないのか。よしここだ、と携帯を取り出した。はじめは携帯を開き隠し隠し調べていたが、意外と集中してしまい、そうなると周りの目が気にならない。

どうやら事故発生の時刻は私が見送った電車が発進した直後で4つ先の駅であったらしい。また大した事故でもないらしい。まあよかったと思いつつ、よくよく考えてみるとあの見送った電車も止まっていたことに気が付いた。おそらくあの電車は線路上で止まっていただろう。あの電車はあの混雑でありながら、細く狭い地下で停車していたのだろう。

私は過去に乗っている地下鉄が線路上で停車したトラウマある。その時、車内はたいして混雑していなかったが、なぜか不安が募り動悸が乱れ軽くパニックを起こした。よかったー、あぶねー。その状況は想像するだけでこわすぎる。安堵が体中に染み渡った。やはり私の本能はこの橋渡るべからずと言っていたのだ。