幽かに生きてる

日常を考えています。日常エッセイ風一人コントブログです。

11は友人

近所にできた新しい家の庭でバーベキューが行われていた。楽しそうな笑い声が響く。こんなに暑いのだから窓を閉め切ってクーラーをつければよかった。この差は何だ。異常事態だ。頭のおかしい振りをして乱入してみようかな。

私は東京に友人がいない。本当に一人もいない。友人は作る気になれば出来ると思う。作ろうとしていないことが問題なのだ。さらに言えば友人がいない事をさほど問題と思っていない事が大問題なのだ。今、病気を患えば死ぬと思う。

こんな私でも地元には友人がいる。それも決して少なくはないと思う。たまに地元の友人と電話すれば、誰々が結婚したとか、数人で集まって飲み会をしたとか、もやもやとした気持ちになるような話を聞く。ゴールデンウィークやお盆には飲み会の誘いもある。ただ、いかんせんアルバイト生活の私は、決まった休みがあるわけでもなく、シフトに穴があけば給料は削られ、交通費の負担は大きく、地元に帰省するのはせいぜい年末年始が精いっぱいである。かといって、何かの夢があるわけでもなく、充実した日々を送っているわけでもない。

私は一体なぜこんなにも自分を苦しめているのか。理想の生き方と真逆の方向に向かっている気がする。

ふと最近思ったことがある。人は無数の選択をして生きている。世の中のすべての人はそれがどんなことでも良い方向に向かうと選択して生きていると思っていた。仮にそれが犯罪になってしまったとしても、自分にとっては「良い」と選択して生きていると思っていた。しかし、それは誤っているのではないかと思い始めた。

私の場合だが目の前に訪れるであろう困難や苦悩を避けるために、いの一番に楽な方に飛びついていた。そしてそれが、人間なのでは無いかと思い始めた。事実、その瞬間のみはそれが「良い」という選択かもしれない。しかし、少し考えれば、のちのち「良くない」ことがわかる。頭ではわかっているのだ。身体が楽な方へ向かってしまう。私が信じていた、私の選択はすべて「良い」というのは思い込みだった。

そしてそれに気づいても、未だにその間違った選択が往々にしてある。私は私の身体を見つめようとせず、頭だけが大きくなっていると感じる。

この肥大した頭を両手で支えて、部屋の中で悶えてみた。あ゛づいよー、と喚いてみた。だ、だずげでぐれー、と部屋中を歩き回る。少し気持ちが楽になる。ゾンビになった気分。しばらく続けると客観視する自分が次第に離れていく。このまま部屋を飛び出した。ゾンビは歩く。人の声がするほうに向かう。バーベキュー会場の男女は驚いたが、すぐに冷笑。次第に近づいてくる。誰これ?指を差しまだ笑っている。ゾンビは焼けた肉など興味を示さない。生きている人の肉を求めている。確実に近づいてくるゾンビに次第に焦りだす。一定の距離を保ち離れる。しかしどこまでも追ってくる。逃げ惑う声は大きくなり、叫び声に変わる。1人の男が立てかけてあるショットガンを手にした。ゾンビを狙う。ギリギリまで引き寄せて引き金を引いた。これまでの叫び声を銃声が裂く。反響を残し、訪れる静寂。ゾンビは死んだ。バーベキューは再開した。あれは僅かな恐怖体験の楽しいハプニングだった。ゾンビの死体を弄んで笑い合う。ゾンビの肉を焦がして遊ぶ。なぜか今日の私にはこんな異常な世界がありありと目に浮かんだ。