幽かに生きてる

日常を考えています。日常エッセイ風一人コントブログです。

7は社会不適合者

社会って社会不適合者でできているのではないか?

自分は社会不適合者であるという人が多すぎる。世の中に社会不適合者が多すぎる。何かつじつまが合わない。かくいう私も社会不適合者であると思っている。出勤中にそう思いついた。

そもそも社会適合者って誰?イケイケな奴のことか?パリピ?ギラギラのおっさんか?生地の薄い白Tシャツに色の薄いピッチピチのジーパンに便所で履くみたいなサンダル履いて、若いゴキブリみたいな浅黒いチョビ髭むちむちパッチリ二重男のことか?あれ何なの。どこの工場か知らんけど量産されすぎだろあれ。それとも量産型の大学生がすくすくと育ったらああなるのか?そうか、量産型が社会適合者か。いや多分違うな。他人からすれば私は確実にフリーターの量産型であろう。

いわゆる普通の生活というものをしている人のことか?大学まで進学して、それなりの会社で新卒で20万もらって、職場の人と結婚して子供産んで、子供が少しグレて、それでも立派に大人になって、子供の結婚式でグレた時の事をイジって、みたいなやつか。いや、既婚者でも子持ちでも死ぬほど自殺者はいるし、ちょっと待て自殺者は社会不適合者か?社会に適合できないと絶望し自殺したものもいるだろうが、精神的に壊れてしまって、もしくは壊されて自殺したものもいる。口が裂けてもそんな失礼なことは言えない。というか、そもそも中卒でもニートでも独身者でも社会に適合している人は山ほどいる。

では自分を社会不適合者と思っていない人が社会適合者か。何だその理屈、とは思いつつも、わりとしっくりきている。

ここで言う社会とは自分の周りで形成されているもので、その社会に自分が適合しているか否かは自分にしか分からず、はたから見たら自分が多少浮いていたとしても、それはその人にとっての社会の一部であるから、適合というよりは既にそのものであるのだろう。つまり、ここで使われる社会という言葉は、自分と2項対立しているもので、自分以外がすべて社会であるのだから、自分以外には適合も不適合も分かりえるはずがないということで、ともすれば社会不適合者が多すぎる社会というのも納得できる。自らが思えばすべての人は社会不適合者になりえるし、その逆も然りだ。自分から見れば自分以外の社会不適合者はいない。それそのものが社会、様々な人すべてひっくるめての社会だからである。

自分を社会不適合者だと思っている人は、人々をカテゴライズして、自分に劣等感があるのだろう。それは構造上というか、人の構造はよく分からないが、なんとなく脳の便宜上しかたないことでもある気がする。先ほどの量産型や普通の生活の偏見がいい例である。私の偏見はその人より優位に立った振りをして、ネガティブな思考から直接ダメージを受けないように、それを笑ってみせているのだろう。

もちろん偏見をなくし人を皆一人の人間として、真摯な態度で接して、人に優劣などなく、自分はダメな人間ではない。というのが最大の解であり、頭では分かっているつもりだが、なかなかそれも難しい。

そんなことを考えていたら、1日の仕事が終わった。

帰宅時電車に乗るとドアの前で坊主頭のおじさんが1人でぶつぶつ話している。完全に会話をしているので、はじめは電話をしているのかと思っていた。その人は1人会話の面白さに笑ってしまっている。それも、周りに気を使って笑い声をあげないようにしている。変な人だ。病気なのかもしれない。

その人を笑うことなど到底できない。当然、今までもそんなことはしてこなかった。笑う側を軽蔑していた。それはおそらく自分の劣等感からくるものであると感じた。マイノリティな人が、本人は笑わせることを意図していないのに笑う人が許せなかった。それは弱いものいじめである。自分が弱いものであると自覚して、自分が笑われているように感じたのだろう。

またやってしまった。その人を弱いものと決めつけたこと、自分は弱いものであると決めつけたこと。どうやら私が無意識に便宜的に見ている社会にはどうしても強者と弱者が存在しているらしい。さらに望んでいるらしい社会は、強者が弱者を打ちのめすことのない社会らしい。

であるならば私にとって理想的な社会は究極の社会不適合者で成り立つ社会である。全ての人が劣等感を抱いている社会である。そうであればすべての人は弱者には共感し、それを守る。強者には気付かれないように、その様を笑いに変えてひっそりと弱者が優位に立つ。社会不適合者バンザイなのだ。今や社会は社会不適合者で形成されるべきだと思っている。

ていうかこれ強者は謙遜しろってことか。そうだよ、もっと謙遜しろよ。謙遜して自分は社会不適合者って言っとけバカ。