幽かに生きてる

日常を考えています。日常エッセイ風一人コントブログです。

4は恐怖

交番前ではおじさんが怒鳴っている。何にそんなに腹を立てているのか知らないが、まあ落ち着きなさいよ。警察官は見事な辟易で教科書に載せてもよい辟易だった。おじさんのわめきはマンガで全く同じ様子を見たことがある。とても興味が湧いたのでイヤホンをミュートにし横目でちらちらしながら様子をうかがった。よく分からなかったので折り返してもう一度確認する。結局それほどの勇気はないし飛び火もこわいので、あまり近づけずに何の揉め事かは分からずじまいだった。

近くのコーヒー屋で先ほどの揉め事の妄想を繰り広げながら一服していると、ちょうどおじさんが投げるように金を支払っているあたりで地震が起きた。急に現実に戻され、妄想の中のおじさんはこの機を逃すまいと逃げていってしまった。さほど大きな揺れではないが、長い。周りもざわつく。私は上をみて、揺れを感じている。地震の最中に上を見てしまうのはなぜだろう。そう思っていても地震は収まらない。携帯を取り出し情報を集めようとする。私もビビッていたのか、少し手が震えている。

携帯のインターネットの画面を開くと火事情報のページがトップにあった。これは先日バイト先の下の階でボヤ騒ぎがあった時に開いたページである。その時は私一人しかおらず、廊下にこの世の終わりのような警報が鳴り響き、廊下に飛び出すと、熱気を感じて本気でやばいと逃げ出した。ワールドカップなど比にならない熱気である。人とはよく出来ているもので、7階にいたもかかわらず何も考える隙を与えず階段を選択した。今はそんな自分を誇りに思う。階を降りるごとに熱気は増し、急いでビルを飛び出した。ビル前には人が集まり様子を見ている。飛び出した私は生還者の面持ちで群衆を見渡した。一通り歩き回り、遠くから覗いてみると炎がちらっと見えた。その炎は極小ですぐに消火器で消された。消火後にけたたましいサイレンを鳴らし、消防車が4台とパトカーが2台到着した。見ため僅かに見える炎でもかなり熱かった。火事の恐ろしさの片鱗を感じた。

この世界は恐ろしいものであふれている。他人も天災も人災もこわい。まさに地震雷火事親父、今回は雷は経験していないが、現在日本中で台風と大雨が猛威を振るっているらしい。

死ぬ恐怖は何にもまして恐ろしい。

しかし後々考えれてみれば、何をそれほど恐れているのかとも思う。私は今日、誰とも話していない、誰とも目が合っていない。他人に存在を認められなければ、死んでいるも同然ではないか、と思っている。死とは何か、という月並みな問題に月並みな回答通りだろう。それも本当の死を前にすれば悠長な考えなのだろうか。あの時の恐ろしさはもう覚えていない。今はこのように存在を文字情報に転化してギリ生きていると思っている。読んでくれる方、ありがとうございます。私はあなたによって生きています。その逆も然りです。あなたは私によって生かされているのです。それは誰もが同じなのです。自分が生きているのかは自分だけでは分からない、様々な関わりの中で生きていることを確かめるのでしょう。また意識して確かめてみるといいでしょう。悲しみも怒りも喜びも感情とは自分の存在の証明に何らかの影響が及ぼしたときではないですか。それさえ分かればもう安心です。その気持ちを忘れぬように、あとはこの書画をお買い求めいただければ全ての問題は消え去ります。必ず心の平穏が訪れるでしょう。

一部、ポストに入っていた広告引用。

 

3は体調不良

年々気圧の変化に敏感になっている。体調が優れない気がする。

「気象病」というものらしい。ざっくりとした症状は古傷が痛むぜ的なことらしいが、今は少年マンガの山場ではないし、別に古傷は痛まない、というか古傷は無い。あとは喘息だとか頭痛だとかがあるらしいが別にそうゆうものもなさそう。なんかだるいのよね、寝不足か。とはいえ規則正しい生活を送るのはどうも無理そうなので、せめて食生活くらいは改める必要がありそうだ。もともと私は少しでも焦ると顔面と手のひらからナイアガラクラスの汗が流れてくるような人間であるから、自律神経とやらがバグっているのは知っている。これを機に見直そう、ここ何日も野菜を食していない気がする。

いやしかし、僅かな気圧の変化によって体調の異変が起こるほどの血液量が自分にあるとは驚いた。私の血液量はあっても雀の号泣ほどだと自負していた。少ないのか多いのか、よく分からない例えだが、ちょうどそのぐらいだと思っている。一筋の涙ではなく大泣き、舌切り雀以来の大号泣である。でも血の量としては少なめ。意地悪なおばあさんのようにならぬよう、生き物と自分の血は大切にしようと心掛けていたのだ。

 先日も洗面台で蜘蛛が溺れていたのを助けてやった。これで地獄に落ちても一本の糸に救われるだろうと思っていた。人生の教訓に児童文学を多用する私の場合、生き物を大切にすることは当たり前のことだ。生き物係もやったことがあるハッピーなピーポーなのだ。

そんな私がジョイフルに髭をジョリジョリと剃っていた時、背後にある100均で買った吸盤で止めるタイプの棚が落ちた。その拍子に振り返ると顔を切ってしまった。血が止まらない。洗面台に溜めた水と血が混ざり池が出来上がった。実際は僅かな量かもしれないが、水と混ざり洗面台いっぱいに見える血の池の光景はすさまじく、数日間優れない体調と相まって、嗚咽するほど気持ち悪くなった。目を閉じ頭を伏せると貧血でぐるぐると回る。耐え切れず目を開けば洗面台の煌々としたライトに血の池の赤と蛇口の銀がサイケデリックに混じり合いその景色は崩れ、私は溺れて落ちていく。

するとそこに一筋、細く光る蜘蛛の糸がするすると垂れてきた。あの時助けた蜘蛛に違いない。しかもこの状況、他人を貶めるようなヘマもない。カンタダの二の舞を演じるわけにはいかないのだ。何だよカンタダって名前。私は手を伸ばし糸をつかむと懸命にのぼっていった。しかし、想像以上に落ちていた私はのぼれどのぼれど先が見えない。次第に無意識の焦りが募っていく。額に汗がにじんできた。余裕をもって、ゆっくりで構わないと自分に言い聞かせる。しかし意識すればするほど汗が出るのが自律神経のバグのたちの悪いところで、気付けばしたたるほどの汗をかいている。こうなったらもう終わり、どうにもならない。顔面同様、手汗もひどく、ついには滑り、あっという間に奈落の底へと落ちていった。他人の心配などどうでも良かった。まずは自律神経を整えておくべきだった。

自律神経を整えたほうがいいねと私が言ったから7月6日はサラダ記念日

2は賭けごと

ギャンブルとはいかがなものか。

パチスロで9万溶かした。私はパチスロ狂で「気がつけば足が勝手に」タイプの病気ではないし、店に行くたびに目につく「俺より先に」と「俺より後に」をパチンコ屋で忠実に実行する目立つタイプのさだまさし信者でもなければ、もはやここで生活してますか?と思えるほどの馴染みかたで迷彩効果を発揮する泥顔の人間でもない。休みの暇つぶしに少しだけ、遊びの範疇をわきまえているのである。そんなスロットを5年程続けてきた。これは理想的とすら言えるスロッターの鑑なのである。負けることはよくあったが、何万もつぎ込み生活が苦しくなるほどの熱中はなかったし、真っ赤になったトーマスよろしくの粉塵巻き上げる暴走もしなかった。

これがどうも先月辺りから様子がおかしい。気付けばスロットを打つたびに負けているような感があった。これはもうダメだなと気付き、行くのは控えようと心に決めた。しかしまあ、一度取り返してから行くのはよそうと思いズルズルと通う。あれ、全然勝てないじゃないか。よし、取り返すまではいかずとも、一度大き目に勝てればよし、今までの負け分はくれてやる。そう思うが一向に勝てない。今までのはぼんやりとした不満であったが、それもどうやら形を帯びてきた。私は怒りを歩みに込めて、パチ屋に向かった。今日も勝てぬ。今日も勝てぬ。歩みは日々力強くなっていく。そして9万、、、。

今までは「人間万事塞翁が馬」を杖に帰り道を歩いてきた。しかしついに杖が折れてしまった。私は帰りの道中、膝から崩れた。忍び足で訪れた眼前の絶望と目が合った。給料日まではあと20日。脇の小さなカフェの店前には笹、願いを込めた短冊が掛けられている。私には願う気力も無い。逆側の公園には滑り台。どこまで滑り落ちていくのだろうか。遠く目をやり、その先の夜空には7月初旬のミルキーウェイ。私は絶望まで運ばれてしまった。天を仰ぐと電線にカラス、夜なのに。それを見ながら「早くねぐらに戻れよ」と思うと、その言葉は自分の状況にも該当し、客観視してニヒルに笑う。何とか立ち上がり、カラスと自分を急かすためにも一歩大きく足音を鳴らす。足音は夜の街に響く。しばらくの沈黙のあと、カラスは小さくコォイコォイと鳴いた。こいこい?お前はまだ勝負するつもりか、もう何もないだろう?私は手札を見直した。笹に短冊、滑り台に天の川、電線にカラス。なけなしの役しかない。どうする?カラスはサァサァと大きく鳴いて急かしてくる。私は冷静に決断する。こいこいは宣言しない。そのまま振り返り、残り20日間をどう過ごすかを考えながら帰宅した。

そして私はパチスロ界の激熱デー7月7日を前にこの勝負を降りた。

1は歯ブラシとシャンプー

そういえば歯ブラシの毛先が広がっている。

帰り道、薬局の前を通り過ぎたときに思い出した。でももう通り過ぎた。明日買えばいいや。そういえばシャンプーも切れかけている。めんどくさい、何なんだよ、生活って。

気にはなったが誤魔化し歩く。タクシーとすれ違う。買わなければならない理由を考えた。

そもそも歯ブラシの寿命とはいつなのか。広がっていても、使えるは使える。広がりすぎていても使える。歯ブラシはほとんど永遠に使えるのではないか?とにかくまだ寿命ではない。自分にそう言い聞かせられる。

それに比べてシャンプーは切れたら終わり。シャンプーは使えば流されてしまう。再び同じものを使うことはできない。

シャンプーが切れたら頭が臭くなる。すると他人に嫌がられる。避けられる。いやだ。よしシャンプーは買おう。花王の買おう。

しかしなぜシャンプーは流されてしまうのか、頭皮の汚れはシャンプーでなければ落せないのか、またはステンレスソープみたいなのはないのか。

考えながら、急な坂道を下る。自然に大股になる。

歯ブラシはどうか。普通歯ブラシは毛先が広がったときに買う。でも歯ブラシは使える。困るのは歯が磨けなくなったときで、それでは口が臭くなってしまう。これはシャンプーと同様の理由で買わなければならない。

つまり人が歯ブラシを買う本当のタイミングは毛先が広がったからではなく、歯が磨けなくなるときである。

この発見は橋の上だった。歯ブラシはまだ買わなくてよい。たかが、だけど。

しかし今は2018年、そろそろ毛先が広がらない歯ブラシが開発されてもよくないか。ひょっとして歯ブラシが売れなくなっては業界が困るため何らかの力が働いているのかもしれない。であるならば歯ブラシは常に消耗品で、私は業界の陰謀によって歯ブラシを買いつづけなければならない。

遠くに見えるビルは夕焼けに反射する。巨大な歯ブラシ業界、そこでは今日も会議が行われているのだろうか。

私は歯ブラシを捨てられない。細かいところの掃除用に使える、と思ってしまう。すでに毛先は広がっているのに。さらに用途を区別して台所用だとかトイレ用だとかで、無限に溜まっていってしまう。死ぬころには何本の歯ブラシに囲まれているのだろう。溜まった歯ブラシに押しつぶされて死ぬのかも。そのうち世界が歯ブラシに覆いつくされて、あの巨大な歯ブラシビルも押しつぶされてしまうだろう。その頃になってようやく歯ブラシ業界は広がらない歯ブラシの開発に着手する。しかし時すでに遅し、世界に広がった使い捨て歯ブラシの回収は間に合わず、歯ブラシ業界は世界から大目玉を食うのだ。しかし対応は下っ端に押し付けて、上層部はあのビルの最上階を切り離し煙をあげて宇宙に逃げてしまう。その煙幕はまるで毛先の広がった歯ブラシの様であったという。

 

家に到着。結局なにも買わずじまい。生活の気怠さ、いちいちめんどくさい。とりあえず1本の歯ブラシは残し、あとは捨てた。

明日薬局行くか。

 

 

 

ブログについて 自己紹介

よろしくお願いします。私は「お礼タダで済ます」というものです。

普段の生活では他人に存在を認められているのかよく分かっていないもので、存在理由のためブログをはじめます。またこれは面白い文章が書けるようになるための修行でもあります。お付き合いいただけましたら幸いです。

この「面白い文章」とは人を笑わせることであり、興味深いだとかの類ではありません。ただし笑いの中にも興味深い等の要素は含まれておりますので、それはアリです。というか興味深くなければ誰も読まない訳で、やはり話題を出すからには興味を惹くブログを書くつもりですが、人間的な面白さといえばいいのか、読んでいてほくそ笑んでしまう様な、つまり表面的な話題のみの面白さではなく、文章そのものが面白いといったようなブログを書きたいです。この人面白いなといったような、だいたいそんな感じです。それによって人を笑わせたいです。もっと言えばその笑いによって人を喜ばせたいです。私は私の存在によって他者に喜んで欲しいと考えているようなのです。

 しかし、私が読者の立場であれば、共感したり笑えたとしても何かのアクションを起こすことはありえません。仮に私の文章で共感や笑いがあったとしても、それは私と考えが近しい人のものとすれば、リアクションは期待できないと考えております。結果、私にとって、はたしてこれが他人とつながっているかは分からずじまいとなってしまいます。

うだうだと言い訳を書きつらねましたが、とりあえず誰かが笑ってくれると信じてやってみるとします。ここまではちっとも面白くないですが技術向上のためのブログですので、まだ大丈夫です。

 

自己紹介をします。

私は26歳の無職です。アルバイトはしています。一人暮らしです。

居場所を求めてふらふらしたらここにいた、といった状況です。東京に上京です。一人暮らしを始めてからしばらく経ちますが友人は出来ず、まあ元々ワイワイやるのは好きではないのでこれでいいです。おそらくほとんど生きていないです。ただし時折寂しくもなるし、話題があれば人が何を思っているのかも気になるし、他者とつながるためにもブログを活用していきたいです。

よろしくお願いいたします。