幽かに生きてる

日常を考えています。日常エッセイ風一人コントブログです。

16は弱さ

自分たちの儲けの勘定に必死になっているバカたちを見る機会が多い。お前たちの思惑通りになってたまるかと思いつつ、私はある程度の加担する素振りを見せておく。やつらを打ち負かすための下準備だ。今は笑わせておけ。盛大な裏切りをかましてやろう。

学校でのいじめは日常茶飯事である。しかし実態はどうだ。噛み砕いてみれば皆ガキではないか。皆一人ではないか。集まっているからたちが悪いのだ。皆弱いのだ、それぞれの弱さを隠したい奴らが集まり、犠牲者は生まれるのだろう。それは大人社会でも同じである。本来の弱さに目を向けず、金やら権力やらで強いと勘違いした組織の人々は、犠牲者を作る。今に見ておけ、その勘違いした強さに溺れるがいい。今は私一人の謀反など取るに足らないだろう。それでも構わない。一人であることが重要だ。このほころびが致命傷になることを信じている。ようやく私は私が信じる正しさの立場を示す時が来た。

本来、私は決断など遅らせれば遅らせるほど良いと思っている。しかし全てを先延ばしにはできない、キャパシティが足りない。それゆえ決断の時は必ず訪れる。私の器では今が限界である。私のパソコンは「みる」の変換で落ちた。私のパソコンのキャパシティはそこが限界だったようだ。

テレビの情熱なんとかとか言うドキュメンタリー番組では密着されるコピーライターがオフィスでインタビューに答えていた。もはや、自然体を装うことが、自然であると思われるような画角では、例にもれず強烈にカメラを意識した「自然」が作り出されている。有名なデザイナーに依頼したらしいそのオフィスは白で統一されたインテリアであるが私からすればダサい。一体何年前の未来像をなぞっているのか。今はキューブリックが新しい時代じゃないんだよ。大層な集団は未だ自分たちが先端であると思い込んでいる。時代遅れの勘違いした強さにすがりつくお前のコピーに共感の一つもない。私はお前らの窮屈でつまらない世界に迎合するつもりはない。

私は戦うのだ。しかし問題はその戦い方だ。批判は盲目を呈する。攻撃的な言葉は弱い実態と裏腹にある。チワワがレトリバーに吠えるのも目撃したことがある。あきれるのも仕方ない、小さなもの弱いものが持つありがちな手法である。また弱さだけを露呈していてもいけない。不快に思うだけだ。リストカットの痕を見せても引かれるか、せいぜい同情されるのが関の山だろう。他人事なのだ、傷跡に自己陶酔しているだけだ。

私は弱さそのものが強さであることを知っている。いかにしてその弱さを叫ぶかということが重要なのである。弱さを受け入れ立ち向かっていく姿勢が必要であるのだ。その姿勢が快いのだ。弱いものでもグローブを付けてリングに立つことで共感は生まれると気が付いた。