幽かに生きてる

日常を考えています。日常エッセイ風一人コントブログです。

17はファミレス

サイゼリアで昼食を済ませる。隣には二人の主婦らしき人がいた。短めのスカートを履いている方がメニューを手にしてサラダを食べる?と聞いていた。すると声の小さい片方は、私はいいかな。といっている。

注文はメニューを持っていたスカート女性が仕切った。最後に、あとドリンクバーも。と言った。すると間髪入れずに、小さな声の方が、あ、ドリンクバーいるかな?と言う。あーいらないか、じゃとりあえずこれで。とスカートの女性は注文をしめていた。せめぎ合っている。面白かった。サイゼといえども何だかんだで結構な料金になる。わかるわかる、と声の小さな女性に共感した。

二人は夫の不満で盛り上がっているらしかった。主にスカートの女性が話していた。声の大きさによって、そう思っただけかもしれない。盗み聞きのようなことも忍びなかったので、私はイヤホンで音楽を聴きだした。

音楽をBGMにしながら店内を見渡した。正面には年寄りの夫婦がいる。左側に目をやると遠くに大学生のサークルと思われる集まりもある。旅行中と思われる欧米の顔立ちの外国人家族もいれば、上司と部下と思われる二人組のスーツ姿の男女もいた。私はあまりにもファミリーレストランな光景にほっこりしていた。私たちは広い意味でファミリーなのだと感じた。

隣を見ると、主婦二人組は知らぬ間にドリンクバーのドリンクを飲んでいた。結局注文したのね。そう思いつつも私が周りを見渡すのには理由があった。注文したリゾットが一向に運ばれてこない。あまりにも遅すぎる。私は忘れられていることがわかっていた。店員に確認すれば済む話だった。しかし私は待つ。あえて待つ。これは当てつけではない。別の意味でこの状況を楽しんでいるのだ。忘れられた存在として、イヤホンの音楽の効果も加えて社会から隔絶している気分でいる。社会的な一切の責任から解き放たれて、私は都市の歯車として機能していないのだ。一つの自由を手に入れた気持ちでしばらくは満足感に浸っていた。

こう思っていたのもつかの間、自意識が芽生え始めた。私の周りにいる人たちはこの状況に気づいているのではないか?と思い始めた。あの人、全然注文届かないな。と思われているのではないかと思い始めたのだ。そうなれば話は変わってくる。先ほどまではファミリーだと思えていた人たちも、今では暗闇のジャングルの中で目を光らせる獣に見えてくる。存在感の薄さを嘲笑されているのではないか、または店員に催促もできない意気地なしに見られているのではないか、という不安が募ってくる。羞恥心を感じた私は店員を呼び注文を確認した。店員は謝罪し、リゾットはすぐに運ばれてきた。

私は早くこの視線から逃れるために急いで食べ始めた。しかしそれにはリゾットは熱すぎる。少し吹き出してしまう。自然と口をはふはふしてしまう。今の私には痛すぎる失敗だった。

それでもなんとか食べ終えて会計に向かう。少しの冷静さを取り戻した私は席を立つ際に隣のテーブルが目に入った。スカートの女性の前には四皿ほど並び、これは確かに頼みすぎだろ、と思った。割り勘だとかわいそうだなと思った。レジまでの間、周りを見渡してみた。誰も私の事など気にしていない。当たり前である。私は何と戦っていたのだろう。周りを見渡せばわかるはずだ。皆がここにいる理由は私一人を貶めるだとか、そんなちんけな理由であるはずがないのだ。それぞれが過ごした膨大な生活の上で空腹を満たすためだとか不満を話し解消するため、休憩のためや仲間たちと楽しく語り合うためなどのそれぞれの目的がたまたま交差してここに集っている。私たちは社会を形成している。私たちはこの世界で生活を共にするファミリーなのだ。