幽かに生きてる

日常を考えています。日常エッセイ風一人コントブログです。

12は誕生日

24歳の誕生日を迎えた日、私はマクドナルドにいた。携帯が鳴った。地元の友人からスティービーワンダーのHappy Birthdayのライブ動画が送られてきた。つい笑ってしまう。私がイヤホンで聴き始めると隣にいたカップルが突然ディープキスを始めた。私は痛烈にスティービーワンダーの偉大さを感じた。

私が20歳の時、もっとも精神的に参っていた時期で、学校にも行かず、引きこもっていた。成人式にも出ず、友人に誕生日を祝われることもなかった。今思えば、いや当時も思っていたが、成人式には出たかった。友人と久々の再会を果たしたかった、もう2度と会うことがない人もいるだろう。しかし、当時の私は全くもって塵ほどの自信もなく、今再会したところで情けない姿をさらすだけだと意固地になっていた。親はしきりに成人式くらい行って来たら?と声をかけてくれていた。成人式に出て欲しかったのだと思う。

現在、私は20代後半にして、人生における重大なイベントの多くを逃してきている。しかし、そんなことが何であろう。むしろそれらを経験していないマイノリティとして、経験していないことの経験者として生きているではないか。と理屈をこねた虚勢を張ったところで虚しさはぬぐい切れない。これまでの成長を祝ってもらうだけで、何一つ感謝を返せていない。

以前テレビを見ていると、親子がインタビューに答えていた。子供に何を望んでいるか、という質問だった。「親としては、この子に何か一つは成し遂げてほしいですね。」と言っていた。子供も任せろと言わんばかりに大きく頷いていた。クソだと思った。この世界には成し遂げなければいけない事など何一つない。そんな事も知らずに親としてはとか、どの口が言ってるんですか。明日死ぬかもしれないんですよ。今日の帰宅中に死ぬかもしれないんですよ。「今、生きてくれているだけで十分です。」だろばか。と思った。つい暴言を吐いてしまったが、あれはテレビ用の答えで、実際のところはあの親子もこれが唯一本当の望みであると思っている。

友人に再会とか親に感謝とか子供の成果とか別にどうだっていい。喜びのすべては、自分が生きているらしい事を確認できるがゆえに、訪れる喜びなのである。悲しみのすべては、自分が生きているらしい事を確認できなくなってしまったがゆえに、訪れる悲しみなのである。

私にとっては誰が生きていていようとも、誰が死んでしまおうとも、私自身が私の存在を圧倒的なものにすれば、最強の人間になりえるのだ。しかし、どう頑張っても自分だけでは自分の存在を確かめられない。どうやら生きているらしい、ということすら分からない。だから、久々に友人に再会したいと思ったし、親に感謝を伝えたいと思ったのだろう。だから、あの子供は何かを成し遂げようとしているし、隣のカップルはディープキスをしていたりするのだろう。