幽かに生きてる

日常を考えています。日常エッセイ風一人コントブログです。

13は貧乏

国民健康保険に脅される日々。財産差し押さえるってよ。差し押さえたところで、金持ちのじいさん1日分の通院費にもならないよ。私は金がなくて歯医者にも行けないってのにさ。

私には金がない。この世界に勝ち組と負け組があるとしたら、完全なる負け組である。そもそも勝ち組とは何であろうか考えた。おそらく多くの人が持つ願望を叶えたもので、羨望の眼差しを受けるものが勝ち組であろう。負け組とはその逆で、ある願望に届きえないと悟ったものが、それらを持つ別の人を羨んだ瞬間に負けは確定するのではないだろうか。

そもそも私は、金やら名声やら権力やらを持つ人を見れば一言目にはああはなりたくない。と発するような人間である。欲にまみれた卑しい人間が必死になって、何やっているのかと感じる。悪魔でも乗り移ってるのではないかと思う。素直に羨ましいといえない、参考にするなどありえない。むしろその人達の粗さがしを続ける私が、それらを得られるはずもないのだ。

こんな私でも口ではそう言いつつ、金と名声と権力は欲しい。よくよく考えればそう思うのも当然であるように思える。生まれてからこのかた、さも当たり前にそれらを目指して生きていきなさいと言われんばかりの学校教育を受けて、そのあり方に何一つ疑問を持つ隙も与えられず、それらを得たものや、得る可能性があるものが最も評価される。それゆえに、新聞でもテレビでもネットでも情報という情報の有益性は自然とそれらを得ることが出来るか否かに設定されている環境の中でこう思わない方がおかしい。人々は誰が得をして誰が損をするのかを充血した真っ赤な目玉で探し狂い、自身が損しない為にノートいっぱいに情報を書きなぐっているように思える。一方で道徳的な教えでは、豊かさはそんなものでは測れない、だとか、それは幸福ではない、だとかを半分閉じた様な目で語られるのだ。矛盾した世界で私が目標を見定められないのは、当たり前なのである。

結局それらは対外的なものにすぎず、私の幸福ではない。というのも分かる。上を目指せばきりがないのも分かる。いくら求めたところで欲に振り回される人生になるのも分かる。しかし欲しいものは欲しい。いかにしてこの世界と向き合っていけば良いのだろうか。

もう勝ちとか負けとかどうでもいいや。でもあいつらむかつくんだよな。一生、何だよ。って思い続けるのも癪だし。それこそ、振り回された人生になる。結局、私は向いていないんだろう。そうやって諦めの境地で生きていくしかなさそうだ。別に私は私の生き方や道徳を誰かに継承するつもりもないし、ひっそりと独り言を発して笑ってみたり、悲しんでみたりして死んでやろう。この世界に不向きな人が絶望の中でたまたま見つけて、自分一人だけではなかったと感じてくれるようなことがあれば、ただそれだけでいい。全世界に大きな恨みと小さな優しさを持って接して生きようと思った。